県指定文化財

更新日:2021年03月22日

1.長福寺の槙【記念物・天然記念物】

所在地:いすみ市下布施757番地
所有者:長福寺
公開:見学可

快晴の青空の下、鮮やかな黄色い葉のイチョウの木の右側で、柵に囲まれた中に堂々と立つイヌマキの木の写真

この木はイヌマキで、長福寺の境内左手にあります。イヌマキは関東南部以西、東海道、近畿南部、四国、九州、沖縄まで広く分布します。
この寺は、檀家約150をもつ古刹で源頼朝にまつわる伝説も残っています。
頼朝がこの寺を訪れた時に、このマキに筆を掛けたといわれ、「筆掛(ふでかけ)の槙」とも呼ばれています。
樹高12メートル、幹囲5メートルの大木で、樹勢は指定当時とかわらず旺盛で、県の木を象徴しています。

2.木造十一面観音立像【有形文化財・彫刻】

所在地:いすみ市岬町鴨根1270番地
所有者:清水寺
公開:非公開

灰色の壁をバックに、小締りでふっくらした面立に、穏やかな表情で、繊細に美しく表現された木造十一面観音立像全体の写真

清水寺は、坂東三十三観音霊場の三十二番札所として知られています。
この像は、像高101センチメートル、ヒノキ材の寄木造です。現在は素地ですが、当初に彩色か箔が施された可能性もあります。
宝髻(ほうきつ)高く、玉眼を入れています。化仏のうち六面を失っているほか、右足先を欠いています。小締りでふっくらした面立、はずみのある体つきは鎌倉彫刻の写実性をよく示しています。衣のひだは動きのあるはでな宋朝風で、当時とすれば異国情緒をたたえた作であったでしょう。
製作年代は、鎌倉時代中期と考えられます。なお、光背と台座は失われています。

3.鉄造仏頭【有形文化財・彫刻】

所在地:いすみ市山田4047番地
所有者:山田4区
公開:見学可

青い布をバックに台座に載せられ、豊かな福耳と目を閉じて安らかな表情で表現された鉄造仏頭全体の写真

首より上で、高さ113センチメートルもの大きさですが、頭頂はありません。頭上の天冠台の下から、頸部三道の下までの菩薩像頭部で、ひとつの鋳型で筒状に鋳造されています。鋳型は耳の後ろで縦に前後をはぎ合わせてあり、型くずれがなく内側まできれいに鋳上げてあります。
わが国の鉄仏は藤原時代から現れ、その多くは鎌倉時代から室町時代にかけて作られたものです。関東地方で知られている鉄仏の中でもっとも鋳上がいいのですが、型にはまった作風で、彫刻技術よりも工芸技術の優れた作です。
首から上が残った大鉄仏の例をほかに求めると、東京都日本橋人形町大観音寺出土と伝えられる鎌倉時代の鉄造仏頭例があります。作風を比べると、大門の仏頭の方が定型化が目立ち、製作年代は下るようです。県下における江戸時代以前の鉄造仏としては唯一の例です。

鉄造仏頭(山田大門区・大日堂)の御開帳

平成25年8月から、毎月第1日曜日(午前10時から午後3時まで)に、鉄造仏頭(山田大門区・大日堂)を御開帳いたします。ぜひご見学ください。

4.木造薬師如来坐像【有形文化財・彫刻】

所在地:いすみ市下布施757番地
所有者:長福寺
公開:見学可

茶色い木目の台の上に、右手のひらを前に向け、左手を左の膝の上において目を閉じた状態で表現された木造薬師如来坐像全体の写真

像高は101センチメートル、ヒノキ材の一木造りで漆箔が施されています。体部は内刳(うちぐり)を施して背板を当て、両肩、膝部等を接(は)ぎ付けています。
白毫(びゃくごう)は欠失していますが、肉髻(にっけい)珠は木製、彫眼で耳たぶは環耳です。衲衣(のうえ)をつけ、左手は膝で上に向け、右手は五指を伸ばして正面に向けて左足を外にして座っています。
この像の姿には、平安時代後期の地方的作風が見られますが、肉髻の高目なこと、眼の彫り方、力強い体部の表現などから製作年代は平安時代後期から鎌倉時代初期と考えられています。
膝裏に建長二年(1250)、胎内に寛永十五年(1638)の修理墨書銘があります。
本県における鎌倉時代初期の作例として重要な資料です。

5.銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像【有形文化財・彫刻】

所在地:いすみ市荻原2136番地
所有者:行元寺
公開:非公開

赤い台座の上の白壁をバックに右手のひらを前に向けて立つ様子の銅造阿弥陀如来と両手を胸の前で組むようにして立つ様子の両脇侍立像の写真

像高は中尊の如来像が52センチメートル、両脇侍は33.5センチメートルです。中尊は両手首別鋳で、蟻枘(ありほぞ)をもって袖口ではめこみ、両脇侍は両腕別鋳で、これも同方法で肩のつけねではめこんでいます。
中尊は県内善光寺式(ぜんこうじしき)の中で像高が一番高く、三尊とも顔、体とも重厚で鋳上がりがよく、善光寺三尊中もっともすぐれた作品です。
この像で特に注目されるのは、像全体に金箔が施されていて、鎌倉時代に通例見られる如来像と異なって、中尊の肉髻がきわめて高いことです。古風に造られていることで著名な、鎌倉円覚寺の文永八年(1271)在銘の中尊像に形が似ているほか、県内では香取郡山田町修徳院の正応三年(1290)在銘像によく似ています。製作年代は、円覚寺像や修徳院像に近い、鎌倉時代後期と考えられます。

6.金銅竜文五鈷鈴【有形文化財・工芸品】

所在地:いすみ市荻原2136番地
所有者:行元寺
公開:非公開

把手(にぎりて)の爪が分かれたような表現と立派な龍が大きく巻き付くように表現された鈴体の意匠が印象的な金銅竜文五鈷鈴の写真

総高23.5センチメートル、鈴部高10.5センチメートル、口径10センチメートル、舌長7.5センチメートルの金銅製の五鈷鈴(ごこれい)です。これは密教法具のひとつで、五鈷杵(ごこしょ)形の把(にぎり)をつけた金剛鈴(こんごうれい)で、振り鳴らすと妙なる音を発して、仏を歓喜せんとするものです。
把と鈴が別鋳で、把手(にぎりて)の珠文帯(しゅもんたい)の上でつなぎ、鈴体内に枘(ほぞ)を差し込み、その先端に舌(ぜつ)をつるしています。把の部分は中央鬼目(おにめ)とし、珠文帯をめぐらしています。弁(べん)は各部とも三重弁で、鈴体の意匠は竜を高肉に鋳出して廻らせた特異のもので鋳上りも優れています。
寺伝では慈覚大師が唐から請来(しょうらい)したといい、竜鈴(りゅうれい)と称し請雨祈願のときに使われました。銘文がなく、年代・作者は明らかではありませんが、様式、手法から製作年代は、鎌倉時代か南北朝時代と推定されています。

7.鋳銅孔雀宝珠文磬【有形文化財・工芸品】

所在地:いすみ市岬町岩熊820番地
所有者:法興寺
公開:非公開

特徴的な上縁六弧、下縁三弧の型取りに、簡略化された八葉の蓮華文の撞座を中心に翼を張り、尾を上げる孔雀を表現した鋳銅孔雀宝珠文磬の写真

鋳銅で、肩張27センチメートル、裾張27.6センチメートル、総高17.3センチメートル、縁厚1.1センチ内外、撞座(つきざ)径約9.5センチの磬(けい)です。
縁はひし形で内側に子縁をともない、上縁六弧、下縁三弧に型どり、左右の縦縁は下方でやや外に張ります。文様は各面異なり、一面は簡略化した八葉の蓮華文の撞座を中心に翼を張り、尾を上げる孔雀を相対して鋳出します。他の一面はこれも略化鋳出し、長禄5年(1461)の銘があります。
形態・意匠の簡略化が目立ちますが、紀年銘により、その時代の基準作のひとつとなる点で貴重です。

8.木造十一面観音立像【有形文化財・彫刻】

所在地:いすみ市小又井195番地
所有者:小又井区
公開:見学可

明るい木目の壁をバックに目を閉じ穏やかな表情で、両手を胸の前で合わせて立ちながら拝んでいる木造十一面観音立像の写真

この像は、像高約171センチメートル、肩張43センチメートル、台座17センチメートルの一木造りで、平安初期彫刻によく見られ、量槐性(りょうかいせい)を強調するところや、下半身を寸づまりに変形したところなどに特色を持っています。
また、この像は後世の彩色で品質が損なわれてはいますが、古様な面相や裾先が蓮肉の上で座っているところ、裳腰(もこし)のしわの表現など、構造面から判断すると、夷隅郡内にある仏像としてはもっとも古様であり、平安初期の彫刻様式を持つものとして貴重です。

9.大寺の三番叟【無形民俗文化財】

所在地:いすみ市下布施(大寺区)
所有者:大寺三番叟保存会
公開:期間を限定して公開

舞台を囲むように青や白の和装の男の人達が座り、真ん中の舞台で白い翁面をつけた黒の和装に白袴の人が、日の丸の描かれた扇子を右手で持ちながら踊る大寺の三番叟の様子の写真

この三番叟は、いすみ市下布施にある白山神社の氏子の間で約300年前から伝承されており、毎年9月の最終土曜日の祭礼時に奉納されます。まったくの口承で、その由来を伝える文献はありませんが、よく古式を伝え、県下にもまれな伝統芸能です。
この三番叟は、十数年断絶していましたが、昭和五十年に復活、保存会が結成されました。
なお演出に用いる白尉・黒尉の翁面、金蒔絵の沢潟文様のある鼓、笛、鈴、翁および千歳の衣装の用具など一式も、市民俗文化財に指定されています。

10.銅造釈迦涅槃像【有形文化財・彫刻】

所在地:いすみ市万木133番地
所有者:海雄寺
公開:見学可

大きな木製の台の上に横向きで右手を頭に当て、目をつぶり穏やかな表情で横たわる青銅製の銅造釈迦涅槃像の写真

全長516センチメートル、青銅製の「万木の寝釈迦様」と呼ばれる釈迦涅槃像です。
この涅槃像は、正徳年間(1711~15)松丸村三代三上金三郎が本願主となり、近郷在住の多数の人々の寄進によって造り上げたものです。もと、庭前に露佛として安置され盛大な祭典が行われたといいます。明治十四年に補修し現在地に安置されたといわれています。涅槃像の衣紋に刻まれている多数の人の名は江戸中期における人々の信仰心の厚さを語ってくれます。一方、像を鋳造した高度の技術がこの地方にあったことを知る貴重な存在です。

11.木造阿弥陀如来立像【有形文化財・彫刻】

所在地:いすみ市荻原2136番地
所有者:行元寺
公開:見学可

目をつぶり、右手のひらを前に向けて、人差し指と親指で円を作るようにして胸の高さまで上げ、左手のひらも前に向け、人差し指と親指で円作るようにして下ろすような形で佇む様子の木造阿弥陀如来立像の写真

像高97センチメートルでヒノキ材の一木造りです。両腕と足先は別材で接(は)ぎ、彫眼(ちょうがん)で表面は黒漆地漆箔(くろうるしじしっぱく)仕上げされています。光背(こうはい)は挙身光(きょしんこう)、台座は蓮華座(れんげざ)、来迎印(らいごういん)の阿弥陀如来立像です。
穏和な面貌、浅く柔らかな彫りによる定着化した衣文(えもん)、ゆるやかな曲面による肉取(にくど)りなど、平安後期の典型的な定朝様如来形立像(じょうちょうようにょらいぎょうりゅうぞう)の特色を示しています。
なお、後頭部の螺髪(らほつ)が同心円状に刻まれていますが、当代の如来形像にはこうした例は見られず、本像独自の個性として注目されます。全体から丸みの強いふくよかな肉づけに、作者の堅実な技量がうかがえます。
寺伝によれば、平安末期に当寺を再興した平重盛の守り本尊であったとされますが、京都辺りの中央作とみられます。平安後期の仏像の様式を知るうえで、貴重な作例です。

12.木造千手観世音立像及び両脇侍立像【有形文化財・彫刻】

所在地:いすみ市高谷1166番地
所有者:善応寺
公開:非公開

一対の手を胸の前で合わせ、もう一対の手を丹田の前で合わせるようにし、背中から10本の手がそれぞれ伸びる状態で表現された木造千手観世音立像と両脇侍立像の写真

この千手観音は、天台宗高谷山善応寺の本尊です。一木の本木をもって彫られ、この先木をもって彫られたのが、岬町鴨根の音羽山清水寺の本尊とも伝えられています。
三尊とも藤原期の作と推定されます。千手観音は像高160.5センチメートル。カヤ材の一木造り、彫眼、両肩及び手は後に補ったものですが、県下でも優秀な仏像のひとつと折り紙をつけられています。不動明王は像高99.2センチメートル、右手欠、毘沙門天は像高98.4センチメートル、左手及び右足首欠となっています。

13.木造宝冠阿弥陀如来坐像【有形文化財・彫刻】

所在地:いすみ市岬町岩熊1054番地
所有者:法華寺
公開:非公開

豪華な装飾の施された3段の段上にある花のように開いた金色の台の上で両手をお腹の前で組むようにして和やかな表情で表現された木造宝冠阿弥陀如来坐像の写真

像高144センチメートルでヒノキ材の寄木造り、玉眼です。一見して宋朝様式で明人の作を思わせます。どっしりとした姿は堂々たる威容を見せていますが、特に注目されることは面相が異国風であることです。また、天衣が両足から垂れ下がり、その流れがさらに尊像の調和と安定感を与えています。県内まれに見る宋朝様式の尊像で、きわめて貴重な仏像です。制作年代は南北朝時代の14世紀前半と考えられ、法衣の形などから中国宋元仏画の影響が見てとれます。

14.飯縄寺本堂【有形文化財・建造物】

所在地:いすみ市岬町和泉2935番地1
所有者:飯縄寺
公開:見学可

穏やかに晴れた青空の下で、真ん中にある石畳の参道脇を灯籠が立ち、その奥に木造の立派な本堂が建つ様子の飯縄寺本堂の写真

飯縄寺は、慈覚大師により創建されたと伝えられています。寛政9年(1797)に再建された本堂内には、武志伊八郎信由の傑作「牛若丸と大天狗の図」などの欄間彫刻や堤等琳作の天井画「龍」があります。また、本堂造営に関わる経緯や工事の内容が分かる資料が伝わっている。特に寛政9年(1797)の普請帳である「飯縄権現普請其外修履書上控」は、大工をはじめとして彫刻を担当する工匠の手間や作業分担などが記され、当時の施工の様子を知る資料として貴重である。

15.行元寺旧書院【有形文化財・建造物】

所在地:いすみ市荻原2136番地
所有者:行元寺
公開:見学可

緑の生け垣に囲まれるようにして、何本もの木々に囲まれつつ佇む大きな茅葺きの屋根が特徴的な行元寺旧書院の写真

行元寺は平安時代に慈覚大師によって創建されたと伝えられます。旧書院は文化6年(1809)に竣工され、大正元年(1912)に現在の地に曳家(建物をそのまま移動すること)したものです。客間には武志伊八郎信由の欄間彫刻があります。

16.本多忠朝新田開発文書【有形文化財・古文書】

所在地:郷土資料館保管
所有者:いすみ市
公開:期間を限定して公開

年代を感じる紙に達筆な字で書かれた本多忠朝新田開発文書の写真
細長い年代を感じる紙に達筆な字で書かれた本多忠朝新田開発文書の写真

時の大多喜城主、本田忠朝が命じた新田開発に関する貴重な古文書2通。1通は慶長14年(1609)2月6日の「国吉原新田就相起定条々」で、もう1通は慶長16年(1611)2月2日の「万喜原新田掟之条々」で、国吉原、万木原の新田開発の促進を図るための文書です。これらの文書からは、国吉原の新田開発は、溜め池の水を利用して荒れ地の開発をしたということ、新田を開発した百姓にはいくつかの特権が与えられたことなどを読み取ることができる。わずか2通の文書であるが、近世初期の村落形成期において、大名が実施した新田開発の基本方針がよくうかがえる古文書として貴重なものである。

17.夢窓国師坐禅窟(金毛窟)【記念物・史跡】

所在地:いすみ市能実957番地
所有者:太高寺
公開:見学可

苔むした地面に木々が生い茂るコンクリートで囲まれた夢窓国師坐禅窟(金毛窟)入り口の写真

元享3年(1323)1月から正中3年(1326)秋に至る2年半、夢窓国師坐禅修行の洞窟で、国師自ら書いたと伝えられます。金毛窟の三文字が岩面に刻まれています。そして後醍醐天皇の命で京に上った国師出世の地でもあります。
夢窓国師年譜によると、現在の横須賀泊船庵(はくせんあん)で修行をつみ、元享三年1月上総国千町荘退耕庵(ちまちのしょうたいこうあん)に移居しました。
国師は坐禅修行のため、金毛窟に足を運びました。金毛窟の中は190センチメートルの高さで、二坪ほどの広さがあり、三方ぐるりと天井板の受けが刻まれていて、明らかに長時間、坐禅生活を行ったことが分かります。
正中二年春、国師51歳のとき、ここに隠棲(いんせい)中の国師に対して後醍醐天皇は勅使を派遣して南禅寺に招きました。しかし病気と称して「巌谷(がんこく)に隠れて出世を願わず」と固辞、天皇は仕方なく執権北条高時の力を借りて、上洛をうながされやむなく退耕庵を去り、甲州から中仙道を経て元翁(げんおう)を伴って京都に上っています。

18.絹本著色両界曼荼羅図【有形文化財・絵画】

所在地:いすみ市荻原2136番地
所有者:行元寺
公開:見学不可

大悲(だいひ)の種(しゅ)を宿した人間の心が菩提心に目覚め、悟りの世界へと導かれていく様子を、緑青(ろくしょう)・金泥(きんでい)や古代朱(こだいしゅ)を用い、鮮やかに描かれている絹本著色両界曼荼羅図の写真

縦158センチメートル、横130センチメートルからなる金剛界曼荼羅(こんごうがいまんだら)と胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅です。前者は「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」をもとに描かれ、9グループからなり、中心をなすのが成身会(じょうしんえ)です。後者は「大日経(だいにちきょう)」によって描かれています。12のグループからなり、大悲(だいひ)の種(しゅ)を宿した人間の心が菩提心に目覚め、悟りの世界へと導かれていく、つまり両界曼荼羅は悟りを導くための、象徴化された見取り図といってもいいものです。
彩色は極彩色で緑青(ろくしょう)・金泥(きんでい)や古代朱(こだいしゅ)を用い、特に朱が鮮やかに描かれています。諸尊の顔容は丸顔で、手足の表現も美しく、均整のとれた像容です。線書きは鉄線描(てつせんびょう)で優雅、細部にわたり的確に写実的にとらえています。
巻軸(かんじく)に「正長二年(1429)八月十五日大阿闍梨位(だいあじゃりい)金剛仏子阿吽(べんうん)生年五十五、山城国京五条坊門西戸筆者光賢、日数百一日、薩摩阿闍梨同宿生年三十三」の墨書銘があり、彩色曼荼羅として県下でもっとも古いものに属すると思われます。

19.上総十二社祭り【無形民俗文化財】

所在地:一宮町、睦沢町、長生村、茂原市、いすみ市
所有者:
公開:期間を限定して公開

曇り空の広場のような場所に豪華な造りの神輿が6基練り歩く様子の上総十二社祭りを見学する多くの人々の写真

長生郡一宮町の玉前神社など6社から12基の神輿が出て、釣ヶ崎の祭場へ渡御する旧上総国一宮の寄合祭りです。いすみ市からは岬町中原の玉崎神社など3社4神輿が参加し、例大祭を大いに賑わせます。

20.木造金剛力士立像【有形文化財・彫刻】

所在地:いすみ市岬町岩熊820番地
所有者:法興寺
公開:見学可

目を大きく見開き、口をへの字に結んで右手を前に突き出して静止するようにして立ちはだかる木造金剛力士立像の写真
目を見開き、口を大きく開けて叫ぶような表情で、右手を右側に大きく突き出すような形で構える木造金剛力士立像の写真

法興寺山門を守護する金剛力士像。阿形像の像高は271.8センチメートル、吽形像の像高は263.2センチメートル、鎌倉中期~後期の様式を持ち、表情や筋肉の表現に誇張がなく質実な印象が特徴です。体内の墨書銘のある木札から建長7年(1255)に制作されたと考えられます。

21.二十五条袈裟淡縹色麻布(伝夢窓国師料)附七条袈裟1肩 座具1枚 袱紗1枚【有形文化財・工芸品】

所在地:郷土資料館保管
所有者:太高寺
公開:見学不可

禅僧夢窓国師(疎石)所用と伝えられる二十五条の袈裟です。縦121.5センチメートル、横216.5センチメートル、淡縹色の上質の麻布で田相、竪条、横堤、縁のすべてを仕立てた単のもので、竪条、横堤の条葉部分は開葉(葉の一方を縫いとめずに開けておく)とした特殊な縫製を用いています。このような二十五条袈裟は「如法衣」と呼ばれ、最高の法を得た僧侶が着用するものです。織りの風合い、作品の様式、仕立てなどのほか、他寺の調査結果を含めて総合的に判断すると、夢窓国師の所用していた袈裟である可能性は高いと考えられます。

この記事に関するお問い合わせ先

生涯学習課生涯学習班

〒298-8501
千葉県いすみ市大原7400-1

電話番号:0470-62-2811
ファックス:0470-62-2836

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