歴史の中のいすみ

更新日:2021年03月16日

原始・古代

小沢の安養山遺跡では、後期旧石器時代の石器が発見され、新田野貝塚や鴨根遺跡、豆塚古墳など、縄文時代から古墳時代にかけての遺跡、遺構も数多く確認されています。これらのことから、いすみ地域一帯では、古くから多くの人々が暮らしていたことがわかっています。

また、古墳時代には農民の富裕層が使用したと考えられる横穴墓が多く造られました。当地域が最初に文献に現れるのは古事記に「伊自牟」とある記載で、その後、日本書紀に「伊甚」と、宝亀5年(774)の平城京出土木簡には「夷灊郡」と記載されています。

大和朝廷が日本を統一すると、朝廷の直轄地である伊甚屯倉が置かれました。その後、律令国家が成立して夷灊郡が置かれますが、他の郡衙と比較してきわめて多くの正倉(穀物などを備蓄する倉)があったとされています。これらのことから、当地域が大和朝廷や律令国家にとって重要な穀倉地帯のひとつだったと言えるのではないでしょうか。

ほかにも奈良時代に創建され、浄土型伽藍があった岬町岩熊の岩熊廃寺(現法興寺)などからも、当地域が古来より繁栄していた様子がうかがえます。

中世

平安時代末期には上総介広常がいすみ地域を支配し、源頼朝の鎌倉幕府成立にも貢献しました。市内には広常や頼朝の伝説が多く残されています。

鎌倉時代になると、幕府侍所初代別当となった和田義盛が当地域内に所領を持ちますが、義盛が和田合戦で滅ぶと、三浦氏がその遺領を継いだようです。他にも、幕府御家人の伊北氏や深堀氏が所領を持っていました。鎌倉時代末期には、能実の退耕庵に夢窓疎石が居し、約2年半の隠遁生活を送り、修行をした座禅窟(現太高寺裏山)が今も残されています。

室町時代には、伊豆から出た狩野氏がこの地域に進出しますが、室町後期から江戸時代を通じて繁栄した絵師集団狩野派の祖である狩野正信はこの一族から出たという説もあります。

戦国時代になると、上総土岐氏が万喜城を拠点にいすみ地域を支配するようになります。行元寺や飯縄寺、清水寺などの寺院を手厚く保護し、安房の里見氏や小田喜(大多喜)の正木氏、長南の武田氏らと抗争を続けました。しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めで後北条氏と運命を共にし、滅亡しました。現在も残る万喜城跡や、市内に残る多くの城跡から当時の土岐氏繁栄の様子をしのぶことができます。

近世

江戸時代初期、稲作に多大な功績を残したのは、慶長14年(1609)に国吉原、慶長16年に万喜原の新田開発を手がけた大多喜城主本多忠朝でした。忠朝は開拓事業にあたり、諸役や年貢の一定期間免除を約束するなど領民に対し温情ある施政を行い、開発の促進を図りました。

江戸期、当地域は歴史に名を残す偉人を多数輩出しています。行元寺の住職だった亮運大僧正は、三代将軍徳川家光の師としても知られる人物です。行川の出身で小林一茶の俳友だった半場里丸、今関には医師・学者として盛名をはせた田丸健良や、「功過自知録」を著して心学の普及に努めた深谷の東一貫斉がいます。また、岬町長者では、儒学者で荻生徂徠に学び、後に松江藩(島根県)の藩政に参与した宇佐美灊水、灊水に学び、房総地域の歴史を纏めた『房総志料』を著した中村國香らが活躍しました。農民の困窮を領主に訴えその窮地を救い、自らは死罪となった深堀の最首杢右衛門は、義民として語り継がれています。他にも、名奉行として知られる遠山金四郎景元も岬町岩熊に知行地を持ち、関連する文化財が残っています。

近代

明治の初めに起こった自由民権運動は、いすみ地域でも旋風をまき起こし、夷隅郡市内の有志者を中心とした県下初の政治結社「以文会」が結成され、活発な活動が行われました。活動の中心となった井上幹は邸内に薫陶学舎(上布施)を設立し、嶺田楓江ら学識・見識の深い教授陣を招き、青少年教育に尽力しました。

当地域の農業は、明治時代さらに近代化の道をたどります。作田地区では大規模農法を生かすために「耕地整理」が実施され、苅谷では、夷隅川の水利を活用するために明治45年(1912)に当地域で初となる揚水事業が開始されます。

明治時代に導入された鉄道は、明治32年(1899)に一宮〜大原間が開通し、当地域の産業経済を大きく発展させました。これには千葉県初の鉄道建設を請け負った釈迦谷村出身の大野丈助が大きく貢献しました。その後、大正元年(1912)には大原〜大多喜間で「人車軌道」が開通し、大正9年には最新式のガソリン軌道車への刷新が図られ、地域の交通体系が整備されていきました。

海岸沿いでは古来より漁業が盛んで、大漁祈願の祭礼も盛んになり、現在に継承されています。

明治末から昭和初期にかけて、八幡岬や日在海岸などには、森鴎外や若山牧水、林芙美子、山本有三らの文人墨客が訪れ、作品に当地域も描かれ、避暑地としても知られていました。

現代

昭和5年(1930)、それまでのガソリン軌道車に代わり本格的な鉄道「木原線」が開通。昭和9年には、営業区間を大原−上総中野の26キロメートルまで延伸し、小湊鉄道と連絡をして当地域の交通の便は飛躍的に改善しました。現在は第三セクター方式による「いすみ鉄道」となっています。

昭和29年(1954)に国吉町、中川村、千町村の1町2村が合併し夷隅町となり、昭和30年に旧大原町と東海村、東村、それに浪花村と布施村の一部が合併し、大原町となりました。昭和36年には、長者町(昭和28年長者町と中根村が合併)と太東町(昭和29年夷隅郡古沢村と長生郡太東村が合併)とが合併、岬町となりました。これら3町は、新しい時代に向かって、合併協議を重ね、平成17年12月5日、県内34番目の市として「いすみ市」が誕生しました。

地方分権による行政の広域化と自治体の財政力強化を目的に全国規模で進んだ「平成の大合併」により、いすみ市は「温暖な気候と肥沃な耕地に恵まれ、四季折々の農作物が豊かに実る『田園都市』」を標榜し、新たな時代に向けて力強く歩み始めました。

いすみ市

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