伝説 七十五座漂着の地

更新日:2021年03月10日

 旧大原町岩船海岸には、大しけにあった七十五座の神々が、漂流してこの地に上陸したという古い言い伝えがある。この伝説は、旧大原町布施大寺の三上家に伝わる古文書や岩船地蔵尊の縁起におおよそ次のように伝えられている。

 いまからおよそ700年前、後宇多院の健治元年(1275年)9月、中納言の藤原兼貞が、3隻の船で大海を航行中、たまたま台風に出合った。はげしい波風に翻弄されたが不思議なことに、竜宮浄土に漂着した。やがて竜門を出て、再び海上に浮かび、数十日後に岩船海岸に流れ着いた。このとき12人は船中で死んだが、残りの63人は地元漁師に助けられ、粥などの食べ物で手厚くもてなされた。
 波風が静まると、奇瑞(めでたいふしぎなしるし)が現れて、人びとの乗ってきた船はたちまち消え、その姿が大きな岩に変わった。村びとは、こうした不思議な出来事により、流れ着いた人びとを神に祭るようになった。その後、海岸に流れついた人びとは、布施の大寺地区に移り、ここに安住したという。
 ところで、この七十五座の神々の流れついたところは、いまの釣師、三十根の浜であるといい、船が岩に変わった奇岩を人びとは「御船岩」と呼んでいる。また、岩船地蔵尊の本尊も、このとき、これらの神々と漂着し、この海岸に同じときに出現したと伝えられている。
 こうした伝承により、岩船地区では、この七十五座の神々に供応する神事が昔からつづいている。秋祭りの初日、氏子はきまって新米のご飯とまる餅、それに地元でとれたヒジキ、生ナス、カツオブシを神社に持ちよる。そしてこれらを七十五の白木のお膳と椀に盛って神前に供える。このとき、船中で亡くなった12人のお膳にはカツオブシはつけない。こうした神事が終わると、はじめて御輿の渡御を行う。
 また、岩船の地名は、人によりいろいろにいわれているが、この地域は七十五座の神々が漂着する前は、「小千谷村」といっていたが、神々の漂着伝承(船が岩に変わった)によって「岩船村」と改めたという説。また、この村の近海は、昔から豊かな漁場であったので、大漁と深いかかわりのある「祝船」が語源であろうという説もある。更に、昔、東国にはびこった蝦夷を防ぐためこの地区に、とりで「盤船柵」があったということから、地名がおこったという説もある。

(注意)「大原町史より」

伝説 源頼朝「名熊の二本杉」

 旧大原町布施の名熊に、いすみ市指定の天然記念物で、高さ12メートルほどの二本杉の名木がある。「頼朝の箸杉」とよばれ、頼朝がこの地で食事をとり、地にさした箸が成長したものと伝えられている。

(注意)「大原町史より」

伝説 源頼朝「兜松」

 旧岬町江場土にある。源頼朝がこの地に来り、松の木の枝に兜を掛け休憩したという。以来この松を兜松と呼んでいたが、現在は枯れてない。(写真はその後に植えられたものである。)

(注意)「岬町史より」

伝説 源頼朝「筆かけの槇」

 旧大原町下布施の長福寺(硯山)に、県指定の天然記念物で際立って立派な槇がある。この槇は「筆かけの槇」とよばれ、昔、源頼朝がこの寺で硯に墨をすらせていたとき、筆をこの槇の枝にかけたといわれている。また、この寺の近くにある高塚山は、昔、山の麓が牧場であり、ここで飼育した馬を広常が頼朝に献上し、その名馬が「磨墨」と名づけられたとも伝えられている。なお、「名熊の二本杉」は近くである。

(注意)「大原町史より」

伝説 源頼朝「大杉」

 旧岬町和泉にある。兜松で休憩した源頼朝一行は、和泉地区に入り昼食をとった。箸の持ち合わせがないので杉の小枝を折って使い、その枝を地面に挿したところ、根がついて大木になったという。この杉は今は枯れてないが、土地の有志はこの地に新たな杉を植えかえ、杉の木の前に源頼朝を偲び記念碑を建立し、後世に伝えた。

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